昭和40年07月24日 夜の御理解
(途中末尾切れ)
「妙賀栄える富貴繁盛」と、教えて下さるので御座いますから、先ず妙賀栄えるというおかげを頂かなければいけません。富貴繁盛と、富貴繁盛と言う事はお互いが願っておる、あらゆるおかげを差し止めるのだとこういう訳ですね。妙賀というのはどう言う様な字、そのから頂きましても賀こびの妙とかいてある。南無妙法連華経、南無妙の妙、ね。賀は賀正の賀、喜びの妙と、それは、信心の喜びです。
信心をさせて頂く者の喜びです。と言う事だと思うですね。ですから結局信心の喜びの分かるところまで、信心の稽古をしなければいけんと言う事ですね。そのためには話を聞けば分かるのではない、わが心から練りだせと仰るので御座いますから、本気でその喜びの妙を求めて、信心の喜びを求めての信心。果たして信心をさせて頂いておる事が有り難いなあとこう、信心を頂いておると言う事がです。
日々その、信心生活をさせて頂くものの喜びというものがです。果たしてどのくらい私共の身に付いて行きよるだろうかと。ね。ですから私はこの信心をさせて頂くものの喜びと、その喜びが段々分かるようにならなければ、本当のおかげにはなって来ないと私は思う。ね。ところが要は悲しいときの神だのみで、神様に御願いをすると。確かにおかげじゃろうと思われる様なおかげが現れる。
また確かに、これこそ神様のおかげであろうと言う様なおかげが体験される。そう言う様なところから信心の、まあ言うなら知能というか不可思議というか、そういうものに段々この触れていくと。いわばそのおかげが分かるということ。その辺で皆がいわば行きつ戻りつしている様に私は、こう感じるです。しかもそれが二年、三年ではなくて、何十年という間そこのとこだけで。
いや何十年ででも分かれば良いのだけれど、一生涯信心はその辺のとこだけで。まあこの頃は大変ご無礼しとるけんで、たまには参らにゃと言った様な程度のもん、信心として。ね。これで信心の喜びというものが、与えられる筈もない。だから信心の喜びが頂けなかったならばです。いわゆる妙賀栄える富貴繁盛と言う様なおかげにはなって来ないのである。ですからこの妙賀というのですから、まそのう喜びの妙というのですからどの様な中にでもその喜びを感じれれる、それを持って私は喜びの妙だと。ね。
例えて言うならば、甲の人が腹を立てておる。乙の人は悲しんでおる。ね。悲しんだり、腹を立てたりするような事柄の中にでも、丙の人はその事を有り難しとお礼を申し上げたり、有り難しと喜んでおれれるという、そういうのが妙賀だと私は思うのです。ですからそういういわゆる信心の喜び、いわゆる妙賀を求めての信心。ね。信心いわゆる信心を求めての信心。おかげを求めての信心と違うのです。
ですから誰だってやっぱり、おかげを求めてからの信心ですけれども、そこに終始しておりますと一生、結局そういう信心で終わってしまいます。ね。話を聞くだけが能ではない。わが心からも練りだせと仰る。その練りださせて頂くというところに、私は工夫が要ると思うですね。私共自分の信心を振り返ってみて思うのですけれども、ははぁあの時分に、富貴繁盛の元が出来ておったんだなあと。
あの時分に御徳というなら御徳に触れておったんだなあと。あの時分のときが、いよいよそれこそ妙賀畑の中に、立っておる様なもんだったなあと、言う様なふうに感ずるです。ね。でその時分のことを振り返って見ますのにです。やはり、終戦直後の事で御座いますけれども、振り返ってみるのにですね。このもう兎に角、神様が喜ばれると言った様な事を聞きますよねえ。
お説教ならお説教で、神様が喜ばれる信心とはこういう信心だと、聞かせて頂いたらです、もうそれを早速実行に移すことです。神様は喜びなさるかも知れんけれどと、そこに私は、確かに喜びの妙を感じたとこう思うのです。まあ感じたと頂けたとこう思うのです。次にはです。人の喜ばれることのために、奉仕するという精神です。もうそれこそ自分は立てんまでもです。人が喜んで下さるという事の為にならば、それを一生懸命に奉仕させてもらう。それがもう一生懸命。
昨日秋永先生が言うておりましたように、兎に角家庭のなかで家内がいう事をきかんとか、ね。息子ががたがた言うとか、私の信心が足りんからと言う様な程度で取り上げとったっちゃつまらんという事。例えば家のお母さんの、あの信心ぶりを見ておったら、家のお父さんのあの信心の姿に触れたら、言おうと思うておった事も、つい言えなかったという位に、一生懸命にならなければいけん。私がつまらんき。私が出来んから、家内がガタガタ言う。私がつまらんとは子供がいう事をきかん。
と言うてその、子供がいう事をきかんとか、家内がガタガタ言うとかという程度の、一生懸命じゃつまらんて。結局本気の一生懸命のものが、外れている証拠だと、という様な事を言うております。ね。それは私自身が現在、一生懸命になっておる、ことに対してですたい。家内なり親なりがです子供なりがですたい。そげんあんた一生懸命、椛目のことにばっかりと、その言う様な事の中にです。やはり、家内たちがそこになってきたら、言わなくなってくる。
御造営なら、御造営ということにです。先生がもう一生懸命に打ち込んでおる。そういう一生懸命の姿に触れるときです。私は一生懸命の者の上にですね、喜びの妙が与えられるのだと、ね。ほんとに人が喜ぶことのために、例えばこれも私のことになりますならですたい。ほんとに私の話はです、私が話させて頂く事は、私の信心を喜んで聞いてくれるという方があるならば、それこそ二人のためでも、三人のためにでも、もう遠い
(音声がここで途中切れ)